東中光雄の小学校時代

私は1931年(昭和6年)4月、奈良県生駒郡都跡村立都跡尋常高等小学校(現在の奈良市立都跡小学校)に入学しました。都跡村は奈良時代平城京右京に位置する村で、東に若草山春日山をのぞむ田舎の村でした。

小学1年生のとき、教科書「読本 巻一」は、「ハナ ハト マメ マス スズメガイマス カラスガイマス…」という文章で始まっていました。ところが、私らより2年後の「読本」では、「サイタ サイタ サクラガサイタ ススメ ススメ ヘイタイススメ…」と全面的に変えられました。1931年9月18日、中国東北地方への侵略(満州事変)を始めた政府は、それからわずか1年半で、小学校の教科書を全面改訂し、1年生に、「進め、進め、兵隊進め」と読ませようというのです。軍国主義教育を公然と、一段と進めたのでした。

小学4年生のとき、「綴り方」(作文)で、「満州の兵隊さん」に「慰問文」を書くことをもとめられました。私の記憶では、「兵隊さんは、コクカン(酷寒)の満州で、ヒゾク(匪賊)や馬賊を討伐するために戦っている」と教えられ、♪天に代わりて不義を討つ、忠勇無双の我が兵は、歓呼の声に送られて、今ぞ出で立つ父母の国、勝たずば生きて還らじと、誓ふ心の勇ましさ♪という軍歌(日本陸軍)を耳にしながら、慰問文を書きました。

私の生家は自小作八反百姓で貧しい農家でした。兄弟姉妹8人でしたが、子どもらはみんな大事な労働力で、家の手伝いをしながら学校に通ったものです。100匁(3.75g×100)の小袋をもって イナゴを獲りに行き、にわとりのえさにし、そのにわとりの玉子売りに行きました。
小学5年生のとき 高田好一君(後に昭和42年から平成10年まで薬師寺管主を務めた高田好胤師)が転校してきました。同君との交流のはじまりです。
またこの年の夏休みには、2歳年上の兄とともに「裁縫用」の「糸と針」を自転車に積んで、兵隊さんに慰問の金を送るために、学校区域全てを歩いて行商し廻り、7円30銭もの利益を上げて奈良日々新聞社に託し、新聞に報道されたこともありました。どうして自分がこんな行動に出たのか、今では全く定かではありませんが、ただ真面目に一軒一軒訪ねて行商し、一軒で10銭とか20銭、時には50銭も、針や糸を買ってくれる家もあったと記憶しています。

小学6年生のとき、担任の先生が、中学校に進学するように強く勧めてくれました。当時は義務教育は尋常小学校6年間だけでした。尋常小学校(6年間)の上には、中学校(5年間)と高等小学校(2年間)がありましたが、どちらも義務教育ではありませんでした。
中学校の月謝は1ヶ月5円、高等小学校の月謝は1ヶ月50銭でした。(ちなみに義務教育である尋常小学校も無料ではありません。月謝が必要でした。教科書も有料です。文房具はもちろん自分で買います。月謝は20銭。『小学国語読本』が7銭、『修身』が2銭。鉛筆が1銭、図画帳が2銭。)
尋常小学校から中学校への進学率は1割か、せいぜい2割まででした。小作人の子弟が中学に進学することなどありませんでした。私の家も自小作八反百姓で中学進学はありえないことでした。しかし私は、父が日露戦争の傷瘍軍人だったので、傷痍軍人の子弟は県立中学校の授業料が免除され、成績によっては奨学金も貰えるということで、郡山中学校に進学することをめざしたのでした。