公安事件法廷闘争

1951年4月、東中光雄弁護士は、加藤充弁護士(衆議院議員日本共産党)の法律事務所で、いわば留守番弁護士として活動を開始した。
1951年から52年にかけての弁護活動の特徴は、言論弾圧との戦いであった。占領軍の軍事裁判所での戦いは大変だった。しかし、ポツダム宣言を武器として、意気高く米軍の弾圧とたたかった。

1952年には、事件が次々に起こった。
1月21日 白鳥事件(札幌市警察の白鳥警部が帰宅途中、何者かに射殺された。4ヶ月後に村上国治日本共産党札幌地区委員らが逮捕された。)

2月20日 東大ポポロ事件(ポポロ劇団は、東京大学本郷キャンパス松川事件をテーマとした演劇の上演を行なった。観客の中に私服警官4名がいるのを発見し、3名の身柄を拘束して警察手帳を奪い、謝罪文を書かせた。これが暴力行為等処罰ニ関スル法律により起訴された。)

4月30日 辰野事件(長野県辰野町の警察署や駐在所で火災びんを投げたり,ダイナマイトを爆破さる事件が起きた。日本共産党上伊那地区委員など13人が爆発物取締罰則違反・放火未遂で逮捕・起訴された。)

5月1日 血のメーデー事件(中央メーデーは、警察予備隊についての再軍備反対とともに、人民広場(皇居前広場)の開放を決議していた。解散予定地の日比谷公園から一部のデモ隊が皇居前広場に侵入し、警官隊と衝突した。デモ隊から死者2名、重軽傷者740名以上を出した。デモ隊から1232名が逮捕され、うち261名が騒擾罪の適用を受け起訴された。)

6月2日 菅生事件(大分県菅生村の駐在所が爆破された。張りこんでいた警察官によって2人が現行犯逮捕、共謀者として3人が逮捕された。5人は日本共産党員で、農地改革に伴う土地の分配や米軍実弾演習場の接収反対を主張していた。)

6月24日 吹田・枚方事件(吹田事件:朝鮮戦争二周年記念前夜祭が大阪各地で企画された。大阪大学では学生や労働者ら約900人が参加。吹田操車場では軍事物資の列車輸送などが行われていた。デモ隊は、吹田操車場方面へデモ行進し、警官隊と衝突した。111人が騒乱罪容疑で逮捕、起訴された。枚方事件:ひらかたパーク裏の鷹塚山に約100人が集まった。旧陸軍工廠枚方製造所はGHQの接収が解除になり、小松製作所に払い下げられていた。何者かが旧陸軍工廠枚方製造所に侵入、ダイナマイトを取り付けて爆破させた。小松製作所関係者の自宅の玄関に火炎瓶を投げ込み家屋の一部を焼いた。98人を検挙され、65人が放火未遂、公務執行妨害罪、爆発物取締罰則違反で起訴された)

7月7日 大須事件(名古屋市大須球場で開かれた中ソ訪問議員歓迎報告集会後、約3000人がデモ行進に移ったが、5分後、警官隊は拳銃発射を含む実力行使でデモ隊を解散させ、死者1人のほか多数の重軽傷者を出した。デモ行進に対し騒擾罪が適用され、150人を起訴された)

7月29日 芦別事件(国鉄根室本線芦別平岸間の線路がダイナマイトで爆破された。 翌年鉱坑内夫であった2人の共産党員が逮捕され、起訴された。)

大阪では、5・30集会弾圧事件、6・25吹田事件・枚方事件、生野・阿倍野事件等、数百人に達する被逮捕者が続出し、府下一円に分散留置された。
公判は、吹田事件週3回、枚方事件週1回、生野・阿倍野事件は各隔週1回。いわゆる公安事件の法廷闘争が人手不足でてんてこ舞いしながら連日進められた。