圧制にたいする人民の抵抗権について 枚方事件最終弁論から

これは、枚方事件主任弁護人を務めた東中光雄弁護士が、「前衛」1958年12月号に書いた論文です。
(「前衛」とは、1946年2月 から月刊で発行されている日本共産党中央委員会の理論政治誌です)

「圧制にたいする人民の抵抗権について 枚方事件の最終弁論から」

1、枚方事件の概要
1952年6月24日夕刻から翌25日の早朝にかけて、大阪府枚方市東南方の丘陵地帯、鷹塚山に、労働者・青年学生など百数十人は集まって、朝鮮戦争反対、再軍備反対、枚方工廠・香里火薬廠の復活反対、破防法反対など平和と独立、民主主義をまもるキャンプファイヤーをひらき、午前2時すぎごろからデモ隊を編制し、当時在日占領軍兵站指令部(JLC Japan Logistical Command)やアメリカ軍特資調達部(JPA Japan Procurement Agency )から迫撃砲弾を受注していた小松製作所を旧枚方工廠に誘致して、同工廠を復活させ、朝鮮戦争の在日兵站部としようと活躍していた、中心メンバーのひとり小松正義の自宅およびガレージに対し抗議デモを敢行した。

検察官はこの事実をとらえ、「デモ隊は、小松方を焼毀することを共謀のうえ、小松正義玄関ガラス戸をきりひらき、同家屋内に爆発物である火炎瓶2個を投入して発火せしめて同家屋を焼毀しようとし、また火炎瓶数個をガレージに格納中の自動車機関部に投げつけ発火させ、自動車とともにガレージを焼毀しようとしたが、いづれも一部を焼いたのみで、その目的を遂げなかった」として、放火未遂、爆発物取締罰則違反事件として起訴した。
この事件をめぐって200回におよぶ公判がすすめられ、現在弁護側の最終弁論の段階に入っている。

われわれが、この枚方事件の公判闘争をすすめるにあたって、基本的に考えねばならなかったのは、松川事件三鷹事件との相異点と共通点を明らかにすることである。松川事件で主張され、三鷹事件で裁判所もあきらかにしたように、これらの事件は政治的でっちあげ(フレームアップ)である。政治権力がその反動的な軍国主義的弾圧政策を強行するために人民の分裂を意図してみずからつくりあげた事件を、労働者階級の前衛、共産党の行動だとでっちあげたのである。
枚方事件はこれとはべつに、労働者階級が、平和と独立をめざしておこなった大衆的なデモストレーション、抵抗運動を放火罪にすりかえ、労働者階級を「暴徒」とキメツケることによって平和と独立の闘いを弾圧し、人民の統一行動を分裂させようとしたものである。

菅生事件や松川事件は警察権力などがでっちあげたのだが、枚方事件は被告諸君が現にやったのではないか、極左冒険主義の誤りを犯して放火したのではないか、という素朴な考えかたが、マスコミを動員した敵の大々的宣伝攻撃によって、被告団や共産党に加えられた。
これとの闘いは敵のでっちあげに対する闘いではなく、敵が平和と独立、民主主義のための抵抗運動、デモストレーションを「放火」「暴力行為」にすりかえたこと、そのすりかえのために数々の部分的なでっちあげを積み重ねていること、起訴自体が軍国主義体制を築きあげるための、アメリカ帝国主義と日本独占の要求に沿った政治的弾圧であり、国民の正当な抵抗権の行使に対する弾圧であることを暴露することが必要であった。

前衛 2009年 04月号 [雑誌]