千歳特攻隊始末記―最後の零戦パイロットたち


「千歳特攻隊始末記―最後の零戦パイロットたち 」
この本は、1984年8月に、北海道新聞記者であった藤井貞雄さんがまとめられたものです。
1945年(昭和20年)の終戦間際に、アメリカ軍の四国上陸を予想して、本土上陸を阻止するための零式戦闘機50機による特攻訓練が行われました。本州では制空権がないために、北海道で行われたのでした。藤井さんは、東中光雄隊長の下で、訓練に励んだのでした。

 圧制にたいする人民の抵抗権について 枚方事件最終弁論から

これは、枚方事件主任弁護人を務めた東中光雄弁護士が、「前衛」1958年12月号に書いた論文です。
(「前衛」とは、1946年2月 から月刊で発行されている日本共産党中央委員会の理論政治誌です)

「圧制にたいする人民の抵抗権について 枚方事件の最終弁論から」

1、枚方事件の概要
1952年6月24日夕刻から翌25日の早朝にかけて、大阪府枚方市東南方の丘陵地帯、鷹塚山に、労働者・青年学生など百数十人は集まって、朝鮮戦争反対、再軍備反対、枚方工廠・香里火薬廠の復活反対、破防法反対など平和と独立、民主主義をまもるキャンプファイヤーをひらき、午前2時すぎごろからデモ隊を編制し、当時在日占領軍兵站指令部(JLC Japan Logistical Command)やアメリカ軍特資調達部(JPA Japan Procurement Agency )から迫撃砲弾を受注していた小松製作所を旧枚方工廠に誘致して、同工廠を復活させ、朝鮮戦争の在日兵站部としようと活躍していた、中心メンバーのひとり小松正義の自宅およびガレージに対し抗議デモを敢行した。

検察官はこの事実をとらえ、「デモ隊は、小松方を焼毀することを共謀のうえ、小松正義玄関ガラス戸をきりひらき、同家屋内に爆発物である火炎瓶2個を投入して発火せしめて同家屋を焼毀しようとし、また火炎瓶数個をガレージに格納中の自動車機関部に投げつけ発火させ、自動車とともにガレージを焼毀しようとしたが、いづれも一部を焼いたのみで、その目的を遂げなかった」として、放火未遂、爆発物取締罰則違反事件として起訴した。
この事件をめぐって200回におよぶ公判がすすめられ、現在弁護側の最終弁論の段階に入っている。

われわれが、この枚方事件の公判闘争をすすめるにあたって、基本的に考えねばならなかったのは、松川事件三鷹事件との相異点と共通点を明らかにすることである。松川事件で主張され、三鷹事件で裁判所もあきらかにしたように、これらの事件は政治的でっちあげ(フレームアップ)である。政治権力がその反動的な軍国主義的弾圧政策を強行するために人民の分裂を意図してみずからつくりあげた事件を、労働者階級の前衛、共産党の行動だとでっちあげたのである。
枚方事件はこれとはべつに、労働者階級が、平和と独立をめざしておこなった大衆的なデモストレーション、抵抗運動を放火罪にすりかえ、労働者階級を「暴徒」とキメツケることによって平和と独立の闘いを弾圧し、人民の統一行動を分裂させようとしたものである。

菅生事件や松川事件は警察権力などがでっちあげたのだが、枚方事件は被告諸君が現にやったのではないか、極左冒険主義の誤りを犯して放火したのではないか、という素朴な考えかたが、マスコミを動員した敵の大々的宣伝攻撃によって、被告団や共産党に加えられた。
これとの闘いは敵のでっちあげに対する闘いではなく、敵が平和と独立、民主主義のための抵抗運動、デモストレーションを「放火」「暴力行為」にすりかえたこと、そのすりかえのために数々の部分的なでっちあげを積み重ねていること、起訴自体が軍国主義体制を築きあげるための、アメリカ帝国主義と日本独占の要求に沿った政治的弾圧であり、国民の正当な抵抗権の行使に対する弾圧であることを暴露することが必要であった。

前衛 2009年 04月号 [雑誌]

 天六ガス爆発事故

1970年(昭和45年)3月14日、「人類の進歩と調和」をテーマとした国際博覧会である大阪万博が開幕しました。
その年の4月8日天六ガス爆発事故が起こりました。
大阪市営地下鉄谷町線を東梅田から都島まで延伸する工事で、天神橋筋6丁目(天六)の工事現場で、ガス中圧管から都市ガスが噴出し構内に充満し、大阪ガスのパトロール車のエンジンの電気火花が引火して炎上し、多数の見物人が集まったところで、爆発した事故です。 死者79名、負傷者425名の大惨事となりました。

東中光雄衆議院議員は、当日現場に急行するとともに、衆議院内閣委員会で質問しました。

1970年4月14日衆議院内閣委員会
東中光雄 8日に大阪のガス爆発事件がありまして、私も大阪出身ですので、テレビを見てすぐに飛んで帰ったわけですが、現場の模様は大臣も行かれまして御承知のように、全く戦時中の1トン爆弾が落ちたときの被害のように、現場へ行ってその悲惨さにびっくりしたわけですが、その後ガス爆発の原因あるいはガス漏洩の原因等で対策本部長としておわかりになっておる範囲でひとつ明らかにしていただきたいと思います。

宮澤喜一通産大臣 ああいう事故を起こしましてまことに申しわけないと思っております。原因につきましては、まだ調査が完結をいたしておらないと聞いております。当初500ミリの低圧管のほうからガス漏れがあったというふうに聞きましたが、それはどうも300ミリの中庄のほうではなかったかということを聞いておりますし、それがどういう原因で起こったか、ジョイントではないかということも聞いておりますし、しかしそれが引火した、あるいは爆発したということがどういうことであったか、修理にかけつけましたガス会社の自動車が直接間接に爆発の原因になったのかどうか、疑いの範囲というものはその辺の何点かだということは聞いておりますけれども、最終的なことを聞いておりません。
 
(中略)
東中光雄 いまガス爆発を起こした問題の大阪地下鉄第2号線のあの工事で、いま問題になっている8日の爆発前後1週間くらいの間にあの区域内で起こっておるガス漏れの個所、それから程度について明らかにしていただきたい。

○馬場通産省公益事業局長 これは今度の事故の起こりました現場のもよりの工区におきまして、事故の起こります1週間ほど前からのいろいろな、そういうガス漏れのデータその他につきましては、われわれ新聞等で聞きましたり当事者から聞きましたりしましたが、断片的なもの以外は全体を把握いたしておりません。これはおそらく同時に警察のほうの調査等が行なわれますために、作業日誌その他が警察のほうに行っておる関係上、全体を把握して申し上げる用意はございませんが、いろいろ新聞なりあるいは当事者から聞きました断片的なことでは、当日より3、4日前に同じ地点でガス漏れがあった。それは報告を受けましてすぐ修理をいたしたわけでございますが、そういうことについては聞いております。

(中略)
東中光雄 この工事現場では、爆発したそこから500メートルから700メートルくらい西に行ったところでも、ちょうど大臣がお見えになっているときです、私もそこを通って、ひどいガス漏れで一時引き返そうかと思ったくらい、ガス漏れがありました。ガス会社の人たちがすぐに来て、掘り起こしておりましたけれども、これは私自身が体験したのです。あとあと頭が痛くて往生したわけですが、その個所についてのガス漏れの状況なんかはお聞きになっておるでしょうか。

○馬場通産省公益事業局長 先生が経験をされましたその地点というのは、われわれさだかに承知しないわけでございますが、そのお話に関連しましてわれわれのほうが受けております報告で、あるいはこれであるまいかと思い当たります点は、事故現場から梅田寄りに約300メートル離れた地点に、問題になりました中圧管のガバナーがございます。ガバナーと申しますのは、中圧から低圧に落としますその切りかえのガバナーでございますが、この中にも通常少しガスが入っております。当夜、事故がありまして中圧管のバルブは締めておるわけでございますが、このガバナーにはガスが残っておりますので、爆発のあと始末として事故のあと深夜12時ごろに、大阪瓦斯の作業員がガバナーの中にあるガスを放出したということは聞いております。あるいはこのガバナーにたまっておるガスが放出されるそのにおいのことではあるまいかと思っておるわけであります。

(中略)
東中光雄 対策本部長としての大臣にお伺いしておきたいのですが、この保安監視の体制ですね。そういう資格を持った専門家を、ガス会社だけでなくて、関係施主及び請負業者、建設業者、そこら全体でそういう体制を強化していくといいますか、監視監督体制を強化していく、こういう方向をとられたほうがいいんじゃないかというふうに私は提案したいわけですけれども、その点どうでございましょう。

宮澤喜一通産大臣 対策本部としては、昨晩、先ほども政府委員から申し上げましたように、今後は、工作物についても、保安規程についてもガス会社から通産大臣に案を出させまして、それに対して、要すれば改善命令を出すという形で、他工事の場合にも私どもが了解ができるという体制に直ちにいたそうと思っております。
 ところで、いまのお話でございますけれども、いわゆるガス供給といいますか、都市ガス事業の専門家というのは、ちょっとあってなきがごときものでございまして、導管を布設するとかなんとかいうことになりますと、これは一種の土木工学のほうの仕事になります。それからガスそのものでございますと、これはケミストの仕事になってしまいます。そこで、そういうもののほんとうの専門家というものは、実は、まあ言ってみればガス会社にしかいないということになりますので、いま言いましたようなことは、ちょっと可能なようで、現実にはどうしたらできるかということがどうもはっきりいたしません。それで、要するに、ガス会社の保安要員というものを強化して、工事について注文があるときには、それを工事のほうの業者に遅滞なく言う、こういう体制をとるしかない。どうもそのほうの専門家を独自に養成するということはなかなかむずかしいように聞くのでございます。

(中略)
東中光雄 いまさしあたり50万円ないし20万円の見舞い金が出されておりますけれども、これじゃちょっと少な過ぎてどうにもならぬように思うのですが、その点はどうですか。

宮澤喜一通産大臣 それは最終的に損害賠償の請求になりますのか、あるいはまた板橋事件のようにそういう手続を経て示談になりますのか、それはむろんさだかでございませんけれども、もちろんこの程度の金は一時の見舞いにすぎない。それで話が落着するようなことはとうてい考えられないことだと思います。

東中光雄 では質問を終わります。

 民主商工会 小貫事件

1964年(昭和39年)10月10日には、東京オリンピックが開催されました。
その年の11月17日、大阪市都島区で起きたのが、「小貫事件」です。

「小貫」というのは、都島民主商工会の税金対策部長であった小貫冨雄さんのことです。
(小貫冨雄さんは、のちに昭和46年4月に大阪府議会都島選挙区定数2名で初当選しましたが、50年4月には定数が1名に削減され惜敗しました。)

大阪市都島区民主商工会の会員さんから、突然に、旭税務署員が、昭和39年度所得税の事前調査に来た」という連絡を受けた小貫さんは、会員さん宅に駆けつけました。税務署員は帰ろうとしていたところで、小貫さんは、ひきとめて、年度途中の事前調査は違法であるので、調査に来た事情を尋ねようとしました。この行為が、公務執行妨害罪にあたるとして、起訴されたのです。

検察官の主張する公訴事実としては、被告人は、「両手で税務署員の胸部を突き、玄関踏み台に尻もちをつかせる暴行を加え、もって税務署員の職務の執行を妨害した」というものでした。

争点となったのは、(1)税務署員が従事していた事前調査は適法な公務であるかどうか (2)本件行為の時点で、税務署員の職務執行が終了していたかどうか (3)被告人が暴行を加えたという事実があるかどうかです。

東中光雄弁護士は、現場である民主商工会の会員さん宅の玄関に赴いて具体的に調査し、玄関踏み台を背にして立った税務署員が、もし両手で胸部を突かれたら、踵が踏み台で固定され、後づさりできないのだから、ひっくりかえってしまうと見抜いて、税務署員のうその証言を徹底的に追及しました。

9年余の裁判闘争を経て、大阪地方裁判所で、1974年(昭和49年)3月22日無罪判決を勝ち取りました。判決は、税務署員の証言について、「内容の不自然さ、民主商工会に対する偏見、誠実さを疑わせる証言態度からささいな有形力の行使を誇張して供述している疑いを払拭できないのであり、信用できない」とし、被告人の行為は不法な有形力の行使にはあたらないとしたのでした。
この無罪判決は、検察官が控訴しないで、確定しました。

民主商工会は、権力的な税務行政から納税者の権利を守る運動のなかから誕生し、国民本位の税制、税務行政の民主的改革を求め、申告納税制度と納税者の権利を守る運動をすすめてきました。これに対する税務行政からの弾圧をはねのけ、税務調査の民主化をすすめたたたかいでした。

 東中光雄の小学校時代

私は1931年(昭和6年)4月、奈良県生駒郡都跡村立都跡尋常高等小学校(現在の奈良市立都跡小学校)に入学しました。都跡村は奈良時代平城京右京に位置する村で、東に若草山春日山をのぞむ田舎の村でした。

小学1年生のとき、教科書「読本 巻一」は、「ハナ ハト マメ マス スズメガイマス カラスガイマス…」という文章で始まっていました。ところが、私らより2年後の「読本」では、「サイタ サイタ サクラガサイタ ススメ ススメ ヘイタイススメ…」と全面的に変えられました。1931年9月18日、中国東北地方への侵略(満州事変)を始めた政府は、それからわずか1年半で、小学校の教科書を全面改訂し、1年生に、「進め、進め、兵隊進め」と読ませようというのです。軍国主義教育を公然と、一段と進めたのでした。

小学4年生のとき、「綴り方」(作文)で、「満州の兵隊さん」に「慰問文」を書くことをもとめられました。私の記憶では、「兵隊さんは、コクカン(酷寒)の満州で、ヒゾク(匪賊)や馬賊を討伐するために戦っている」と教えられ、♪天に代わりて不義を討つ、忠勇無双の我が兵は、歓呼の声に送られて、今ぞ出で立つ父母の国、勝たずば生きて還らじと、誓ふ心の勇ましさ♪という軍歌(日本陸軍)を耳にしながら、慰問文を書きました。

私の生家は自小作八反百姓で貧しい農家でした。兄弟姉妹8人でしたが、子どもらはみんな大事な労働力で、家の手伝いをしながら学校に通ったものです。100匁(3.75g×100)の小袋をもって イナゴを獲りに行き、にわとりのえさにし、そのにわとりの玉子売りに行きました。
小学5年生のとき 高田好一君(後に昭和42年から平成10年まで薬師寺管主を務めた高田好胤師)が転校してきました。同君との交流のはじまりです。
またこの年の夏休みには、2歳年上の兄とともに「裁縫用」の「糸と針」を自転車に積んで、兵隊さんに慰問の金を送るために、学校区域全てを歩いて行商し廻り、7円30銭もの利益を上げて奈良日々新聞社に託し、新聞に報道されたこともありました。どうして自分がこんな行動に出たのか、今では全く定かではありませんが、ただ真面目に一軒一軒訪ねて行商し、一軒で10銭とか20銭、時には50銭も、針や糸を買ってくれる家もあったと記憶しています。

小学6年生のとき、担任の先生が、中学校に進学するように強く勧めてくれました。当時は義務教育は尋常小学校6年間だけでした。尋常小学校(6年間)の上には、中学校(5年間)と高等小学校(2年間)がありましたが、どちらも義務教育ではありませんでした。
中学校の月謝は1ヶ月5円、高等小学校の月謝は1ヶ月50銭でした。(ちなみに義務教育である尋常小学校も無料ではありません。月謝が必要でした。教科書も有料です。文房具はもちろん自分で買います。月謝は20銭。『小学国語読本』が7銭、『修身』が2銭。鉛筆が1銭、図画帳が2銭。)
尋常小学校から中学校への進学率は1割か、せいぜい2割まででした。小作人の子弟が中学に進学することなどありませんでした。私の家も自小作八反百姓で中学進学はありえないことでした。しかし私は、父が日露戦争の傷瘍軍人だったので、傷痍軍人の子弟は県立中学校の授業料が免除され、成績によっては奨学金も貰えるということで、郡山中学校に進学することをめざしたのでした。

 白票 青票

衆議院本会議での表決は、起立による表決と記名投票による表決があります。記名投票は、議長が必要と認めたとき、または出席議員の5分の1以上の要求があったときに行われます。記名投票を行う場合には、問題を可とする議員は白票を、問題を否とする議員は青票を投票箱に投入します。
衆議院で使っている票の大きさは、長さ9cm、幅3.15cm、厚さ0.6cmで、檜の板でできています。この白板と青板には、議員の名前(東中光雄とか)が書き込まれています。名前を呼ばれた議員は、いずれかの板を持って演壇に向かい投票をします。

なぜ「賛成が白票(はくひょう)」で、「反対が青票(せいひょう)」なのでしょうか。
古来、日本では色の対照として、囲碁は、白の石と黒の石を打ち合い、相撲は、勝ちは白星、負けは黒星です。平家(赤旗)と源氏(白旗)の源平合戦になぞらえて、紅白歌合戦や運動会の赤組白組対抗戦があります。

私の初当選のときに衆議院事務総長であった知野虎雄さん(在任1967年7月21日-1973年9月27日)の説明では、1890年(明治23年帝国議会開設時の議院規則が、フランス国民議会の投票方式を取り入れたということでした。
私が、1997年に衆議院欧州議会制度調査団で、フランス国民議会を訪問したときに質問したところ、フランス国民議会では、賛成は白票、反対は青票、棄権は赤票を投じ、これはフランス国旗(三色旗)に由来しているという説明でした。

しかし、「白」対「青」という対決は、フランス直輸入というものではなく、日本古来の伝統に根ざしていると私は考えています。
白鳳時代(645年〜710年)に造られた薬師寺薬師如来台座には四方四神すなわち東に青龍(青)、南に朱雀(赤)、西に白虎(白)、北に玄武(黒)の彫刻がなされていますし、藤原京時代(694年〜710年)の高松塚古墳の石室壁面にも、四方四神が描かれています。現在も国技である大相撲の吊り屋根には、四房(青房、赤房、白房、黒房)が飾られています。

「白」対「青」の対決とは、「西」対「東」の対決、「虎」対「龍」の対決なのでしょう。
1000ピース 守護四神図 61-270

 第2回編集委員会

第1期(23年〜45年)担当のSと第2期(46年〜68年)担当の都からは、レジュメに基づき構想の報告を受けました。
第3期(69年〜00年)担当のNと第4期(01年〜今)担当のKからは、個別のレジュメ提出がありませんでした(~_~;)

目標がないと進みませんので、7月23日をすべての原稿(平均2500字で1テーマ。50テーマ設定なので、12万5000字)の締め切りにしました。

第3回編集委員会は、4月24日(金)11:30〜12:30。
宿題:各期とも、最低1テーマについて、モデル原稿を執筆して提出すること。